【院長ブログ】iPS細胞で心臓を再生する新たな治療法の実現に向けて
2025年12月、慶應義塾大学発のベンチャー企業Heartseed社が、iPS細胞を用いた心不全治療の治験結果を発表しました。この研究は、重症心不全という治療が困難な病気に対して、新たな希望をもたらす可能性を示しています。本記事では、この画期的な治療法について、わかりやすく解説いたします。

心不全とはどのような病気か
心不全とは、心臓のポンプ機能が低下し、全身に十分な血液を送り出せなくなる状態を指します。心筋梗塞や心筋症などが原因で心臓の筋肉である心筋細胞が損傷すると、心臓の働きが徐々に低下していきます。
特に問題となるのは、心筋細胞がほとんど増殖しないという特性です。一度失われた心筋細胞は自然には再生されず、細胞数の減少に伴って心機能はさらに低下していきます。現在の治療法は主に薬物療法や心臓移植が中心ですが、重症例では選択肢が限られており、新しい治療法の開発が強く求められてきました。
iPS細胞とは何か
iPS細胞とは「人工多能性幹細胞」の略称で、2006年に京都大学の山中伸弥教授らによって開発された画期的な細胞です。皮膚などの体細胞に特定の遺伝子を導入することで、あらゆる細胞に変化できる能力を持った細胞に変えることができます。
この技術の最大の利点は、患者自身の細胞から様々な組織の細胞を作り出せることです。心筋細胞、神経細胞、血液細胞など、必要な細胞を人工的に作製できるため、再生医療の分野で大きな期待を集めています。

心筋球による新しい治療アプローチ
今回Heartseed社が発表した治療法は、iPS細胞から心筋細胞を作り出し、それを球状にまとめた「心筋球」を患者の心臓に直接移植するというものです。心筋細胞を1つ1つバラバラに移植するのではなく、球状にまとめることで、移植後の生着率や生存率が向上することが分かっています。
治験は2022年から開始され、虚血性心疾患を背景に心機能が低下した重症心不全患者10名を対象に実施されました。前半の5名には5,000万個、後半の5名には1億5,000万個の心筋球を移植し、細胞数による効果の違いも検証されました。
治験で確認された改善効果
公表されたデータによれば、移植を受けた10名のうち7名で心不全の自覚症状の重症度を示す分類に改善が見られ、残りの3名についても悪化しなかったと報告されています。これは、進行を止めることさえ困難な重症心不全において、病状の改善という極めて重要な成果を示すものです。
また、重大な副作用も確認されておらず、安全性の面でも良好な結果が得られました。心臓の機能指標についても前向きな変化が観察されており、移植された心筋細胞が実際に心臓の働きに貢献している可能性が示唆されています。

実用化に向けた課題と今後の展望
Heartseed社は、この治験結果を取りまとめ、2026年にも厚生労働省への製造販売承認申請を目指すと発表しています。しかし、実用化に向けてはいくつかの課題が残されています。
まず、10名という限られた症例数では、長期的な安全性や有効性を十分に評価することはできません。移植された心筋細胞がどの程度の期間機能し続けるのか、より長期的な観察データの蓄積が必要です。
また、再生医療製品として承認を得るためには、細胞の製造工程と品質管理体制が極めて重要です。同じ品質の細胞を安定的に供給できる体制を整備することが求められます。現在、ニコン・セル・イノベーション社が治験用の心筋細胞の製造を受託しており、商用段階に向けた量産体制の構築が進められています。
さらに、より患者への負担が少ない治療法の開発も進んでいます。現在の治療法は開胸手術が必要ですが、カテーテルを使って心筋球を投与する次世代の治療法の研究も行われています。開胸手術を必要としない低侵襲な治療が実現すれば、より多くの患者が治療を受けられるようになると期待されます。
再生医療がもたらす未来への希望
今回の治験結果は、iPS細胞を用いた心臓再生医療が現実のものとなりつつあることを示す重要な一歩です。これまで治療の選択肢が限られていた重症心不全の患者にとって、新たな希望となる可能性があります。
iPS細胞技術は心臓疾患だけでなく、神経疾患、眼疾患、血液疾患など、様々な分野での応用が進められています。失われた組織や機能を再生させるという再生医療の理想が、着実に実現に近づいていると言えるでしょう。
医療技術の進歩により、かつては不可能と思われていた治療が現実のものになりつつあります。iPS細胞を活用した再生医療は、まだ研究開発の段階にありますが、多くの研究者や企業の努力によって、病気に苦しむ方々の新たな治療選択肢となる日が近づいています。
当院では、最新の医療情報を常に把握し、患者様に最適な医療を提供できるよう努めてまいります。
参考文献
NOVAIST「iPS心筋球で前向き変化 慶應発Heartseed、治験結果公表」2025年12月16日 https://novaist.jp/articles/heartseed-ips-cardiac-trial/
慶應義塾大学病院「難治性重症心不全患者を対象とした同種iPS細胞由来再生心筋球移植の安全性試験」臨床研究情報 https://www.hosp.keio.ac.jp/oshirase/1337/
ニコン株式会社「HeartseedがiPS細胞を用いた心筋再生治療薬(HS-001)の第I/II相LAPiS試験における10例目の投与完了を発表」2025年2月3日 https://www.jp.nikon.com/company/news/2025/0203_01.html
日本再生医療学会 幹細胞情報データベースプロジェクトSKIP「循環器」 https://saiseiiryo.jp/skip_archive/knowledge/regeneration/cardiovascular/
株式会社リプロセル「iPS細胞で心臓病は治せる?」 https://reprocell.co.jp/personalips/archives/2059